春になると、うっすら空が霞がかかる日がある。遠く中国大陸の砂が、春になって乾いた地表から気圧におしあげられて舞い上がり、上空高く吹く風にのって、この小さな島までやってくる。
「微生物の箱舟」ともいわれる黄砂には、大気汚染物質が含まれていると近年では問題視されているけれど、「春霞」「おぼろ月」など古くからの春の景色も、黄砂がもたらせる風物詩だった。
子どもの頃は、黄土ににごる空を見上げて春の訪れを感じ、海をへだてて届く細かな砂が、別の文明から届く手紙のようにさえ感じたものだった。
八重山というところは、訪れてみればその名の由来を即座に知ることができる。とくに石垣島は、幾重ものそびえたつ嶺が神秘的で美しい島だ。
石垣島での短い滞在期間を終えて空港に向かう朝、東の空に丸い天体が浮かんでいるのを見つけた。
太陽?と聞くと、月だよと返ってくる。たしかに昨夜、満月ほどのまどかな月を見たのだった。いや、昨夜見た月が今朝まで残るはずがない。レンタカーの中でわいわいと盛り上がった。
月とすると、何かがおかしかった。でもそのおかしさが楽しかった。
満月はかならず、陽が沈むのと入れ替わるように昇ってくる。西の空に太陽が沈むのとほぼ時を同じくして、東の空に赤い月が昇る。地球をはさんで、太陽と月が向かい合うとき、地球から見た月は太陽の光をいっぱいに受けて輝く。だから満月は、いつも太陽の真向かいにある。
朝、東の空にうかぶ満月というのは、ありえない風景なのだった。けれどその存在しえない風景が、まるで日常の顔をした非日常で、旅の一日をわくわくさせた。
インディアン・サマーという言葉がある。日本語では「小春日和」にあたるこの言葉は、初冬にある暖かい一日のことなのだけど、なぜ「インディアン・サマー」と呼ばれるのかには諸説ある。そのうちの一つに、インディアンという言葉が「いつわりの」という意味をもつのだというものがある。
はたして真相ははっきり分からないのだけど、コロンブスがアメリカ大陸を発見したときインドだと思い込んだことから、現地の人々を「インディアン」と呼んだこと。その言葉には、錯覚からくる、かりそめのものという響きもふくまれるようにも思えてくる。
月とおぼしき霞の向こうの太陽、そのことを「インディアン・ムーン」と呼んでみるのはどうだろう。ふとそんなことを考えて筆をとってみた。
朝、東の空にかかる満月。それが太陽だと気づくと日常が戻ってくる。どこかほっとしながら、日常からふいに乖離した時間は、余韻となって体に沈み込む。
季節の変わり目が見せる魔法を、ときどきはこんな風に愉しんでみるのも悪くないかな、なんて思う。