中学校にあがって自転車登校ができるようになると、学校からの帰宅路、おしゃべりの尽きない友人につきあって、となりの吉野集落を経由して帰ることがしばしばあった。

吉野から保良へと向かう道は、たまに軽トラが通り過ぎる程度ののんびりした道で、自転車を走らせていると、カーブの先にぱっと視界がひらけ、南からの潮風が吹いてくる。心地よい帰り路だった。

冬になると、キビ畑だらけのこのあたりでは、ときおり遠くに野焼きの火がぼうっとともっていることがある。

煙のにおいが鼻をくすぐって、乾燥した空気を感じる。うす鈍色の雲が空のいっぱいに広がって、冬の光が重たそうに、雲の切れ間からこぼれている。

その風景にともる野焼きの火が好きだった。いつ出会えるか分からない偶然性をまとって、稜線のとおくにめらめらと燃える。一年を焼き、また次の年を呼び込む、清浄の火だ。

帰郷して何度目かの冬を越したけれど、野焼きの火はすっかり見ることがなくなってしまった。

ある冬の日、小学生の頃に行き来した学道を車で走っていて、その光景が目にとびこんできた。パーガラ(キビ刈りの後の葉)のつもった畑にちろちろと火が燃えていて、農家の人たちが畑に座りながら談笑していた。

思わず嬉しくなった。同時に、そうか、という思いもあった。野焼きをしなくなったのは、家族や地域の人でおこなう手作業でのキビ刈りがすっかりなくなってしまったからなのかもしれない。

うんと子どもの頃、キビ刈りに連れていかれた記憶を思い出す。数人がかりで、キビをたおしパーガラをおとす。その一日は、ちょっとしたイベントのようだった。

ハーベスターでの収穫が増えると、パーガラごと製糖工場に運ばれてしまって、野焼きも姿を消してしまった。すべての農家が野焼きをしたわけではなかったのだけれども、乾いた空気にまざって煙たいにおいが鼻をかすめる感覚は、私にとって冬そのものだ。

ときに大きく燃え、ときに勢いを弱めながら、ゆらゆらと燃える。その火を囲む人たちの心をつなぐ。田舎にいてさえ、火の記憶は遠くなった。