島にもどってきた時、おさない頃のほとんどを過ごした家は既になく、道路拡張のため取り壊された我が家の代わりに、集落のはずれに建てられた一軒家が、故郷の家となっていた。

むかしは寂しい雰囲気だったこのあたりも、今はぽつぽと新築の家が建ち始め、ささやかに賑わいのある一角になっている。

島にある集落は、むかしはどこでもそうだと思うのだけれど、その集落のなかで、生きるということのおおよそを完結させていた。

この土地で生まれて育ち、食べ物を海や畑から得た。時には海岸沿いの荒野にヤギをとらえに行ったらしい。婚姻などで外に出るものもあっただろうけど、ほとんどはこの場所で祖先の土地や家族をまもって、老いて、なくなった後は、集落の外へと埋葬された。

それも今は昔の話。それでも集落の中で生活していると、この、家々の密集する空間の、内と外という意識の形跡を感じることがある。

集落の内と外の境界は、たとえば悪疫払いの行事「シマクサラシ」の、集落の入り口に下げられる縄などで知ることができる。けれどもここに住むお年寄りたちは、集落の境界を、もっと肌感覚で知っている。

子どもの頃は祖母に、どこそこのあたりには行ってはいけないよと口うるさく言われたものだった。私たちは、そんな忠告おかまいなしに、集落のあちこちで遊びまわった。小屋を抜け出した子ヤギたちが百メートルそこらの周辺を冒険して回るように、私たちにとって集落の周縁は、開拓しなければならない、”世界の果て”だったのだ。

当時、よく一緒に遊んだ幼なじみの子のおばの家に誘われていくと、決まって私たちはその丘にのぼった。

そこは琉球石灰岩の隆起した、ちょっとした丘になっていて、ギンネムの木やススキが生い茂っていた。丘の上にはモモタマナの木が立っていて、ごつごつした石灰岩を、ベンチのようにして腰掛けることができた。

そこから見た風景は、どんな風だっただろう。集落のはずれのそのギンネムの丘を登って、私たちは、私たちの住む家並みを眺めたはずだった。

ヤギたちを遊ばせるその夕暮れに、集落の灯りのぽつぽつと明るみ始める光景を見つけて、しばし見とれた。

畑の向こうに、家々がこぢんまり肩寄せ合っている。夜が帳をおろし始めると、灯りが静かにともる。月の銀色の光は、夜の気配をつよくさせた。

子ども時分に見た、あの丘からの風景も、おおよそこのあたりのはずだった。ふと、そのことを思い出した。

あの丘は、どこにいってしまったのだろう。あたりは畑になって、ずいぶん平坦にならされてしまった。

あの日と、この日のあいだには時の川が横たわっている。けれどその一瞬に、幼い日に見た光景を思い出すような気持になった。

あのとき私は、日常の果てから私の住む世界を眺めたのだった。