その日はいつ降り出してもおかしくない風のつよい曇り空で、いつでも戻せるように小屋のちかくの空き地につないで、草をはむ彼らをながめていた。

 空から降りそそぐ光は、いつの間にか冬のものに変わっている。草に一心不乱のヤギたちに、心のどこかで引っかかっていた言葉が、からからと回りはじめる。

 生きるということ、うまれて、必ずある確かな約束。それはどんないのちにも終わりがあるということ。私の中にも、決してうらぎることのない約束が存在している。

 生きることは死ぬことと見つけたり、という言葉がある。

 その逃れることのできない約束は、何にもまして受け入れがたく、しかしだからこそ、受け止めたときに、ほどいてもほどけない約束の、その重みを超えることができる。

 だから命のおわる瞬間を、尊厳あるものであるように願う。

 そう考えると、「生きることは死ぬことと見つけたり」という言葉のもつ実感を知る思いになった。

 ああ、けれども、その小さくかよわい命たちとともに過ごすとき、その日常の瞬間、たとえば夕方の光の深く差し込む庭で、こちらをふりあおぐその表情や、夜がちかづく集落の、ひんやりとした風のわたる通りからみた藤色にひかりをはらむ空とか、そんな一瞬にまた、ふと思いなおす。

 私たちは未来にむかっていきるのか。私があると思う明日は、ほんとうにあるのか。過去が過ぎ去った幻影ならば、未来もまた、まだ見ぬ幻影なのだ。

 そうすると、私にあるたったひとつの確かな実感は、今、この瞬間のひかりの輝きしかない。

 私たちは、明日の予定をたて、約束をし、明日のための準備をする。まだ見ぬ明日にむかって、その明日を好ましいものにしようと今日を生きる。

 そのこと自体は変えられないし、変える必要もないだろうと思う。けれども明日ふく風を感じることはできないし、昨日ふいた風もまたそうだ。

 今日の風のにおいは、今日しか感じることができない。うまれてから、おわりの日まで、どの瞬間がもっとも重要で、命にとってもっとも価値があるなんてことを決められるだろうか。瞬間は等価ではないか。けれど、実感としてたしかにあるのは、今というひと時でしかないのだ。

 いのちの価値は、いまこの時に宿っている。平凡で、喜びも悲しみも、潮のように満ちてはひいていく日々の中で、痛みも歓喜も、いのちに深く結びついていく。

 この美しい夕暮れにふとおもうことがある。もし永劫回帰というものが本当にあって、いつもその時点に回帰しつづける瞬間があるのなら、庭へつながる窓をあけて、ヤギたちののんびりすごす気配を感じる、こんな夕暮れがいいと。